偶然の学校

「この世の中で生きるということ。日本を出て。」

生命(いのち)は
 
        生命は
        自分自身だけでは完結できないように
        つくられているらしい
        花も
        めしべとおしべが揃っているだけでは
        不充分で
        虫や風が訪れて
        めしべとおしべを仲立ちする
        生命は
        その中に欠如を抱いだき
        それを他者から満たしてもらうのだ
 
        世界は多分
        他者の総和
        しかし
        互いに
        欠如を満たすなどとは
        知りもせず
        知らされもせず
        ばらまかれている者同士
        無関心でいられる間柄
        ときに
        うとましく思うことさえも許されている間柄
        そのように
        世界がゆるやかに構成されているのは
        なぜ?
 
        花が咲いている
        すぐ近くまで
        虻(あぶ)の姿をした他者が
        光をまとって飛んできている
 
        私も あるとき
        誰かのための虻だったろう
 
        あなたも あるとき
        私のための風だったかもしれない


    (吉野弘『風が吹くと』1977/茨城のり子,1979,172)

この詩とは、茨城のり子著『詩のこころを読む』という本を読んで出会いました。

ロンドンに来て約半年。私はこの詩を強く噛みしめるような思いで毎日を暮らしています。作者の吉野弘は庭に咲く大きな芙蓉の花を見てこの詩を作ったそうです。

花の受粉には、風や虫の媒介が不可欠です。そして花と同じように私たち人間も他者との共存なしには生きていけません。

22年の人生の中で、私は一昨年、昨年頃から急に日本の外にてみたくなり(勿論きっかけや、給付金をもらうなどの渡航に到るまでの紆余曲折はありますが)大学4年生を休学してロンドンにやって来ました。

初めての海外と同時に、初めての家族と離れての生活。

ここで私はこちらでの友人や親しい人との関わりも勿論ですが、もう二度と会うことのないであろう人たちとの一瞬の交わりに傷ついたり助けられたりして毎日を生きています。

詩の中に、

互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄

とあります。

私たちは知らないうちに時に他者を救い、他者に救われることもあるでしょう。そして同時に他者を傷つけること、他者に傷つけられることもあるでしょう。そのような中で生きていることを私は日本にいる時よりも強く日々実感するのです。

それは、やはりロンドンが”人種のるつぼ”と言われるように沢山の人種が集まって生活しているということが大きいと思います。

私がロンドンにくる前には沢山の国の人々が隔てなく共生しているというイメージを持っていましたが、それは違っていました。そこかしこに見えないラインが存在しており、そして人々は目を伏せてそれに気がつかないふりをすることで暮らしているように思います。

旅行から戻って来ていつも思うことは、ロンドンでは道を歩くとき、他人を視界に入れません。それはそういう慣習なのか、意図しているのかはわかりませんが、文字通り見ないようにしているのかな、と思うことがあります。異なった人種同士の交わりが多いかと言えば、そうではありません。やはり日本人は日本人、イギリス人はイギリス人、または白人、アジア人、黒人同士の中で暮らしていることの方が圧倒的に多いでしょう。前述したようにアジア人であることによって受ける戸惑いも多くあります。しかし私はそれを経験することによって、今まで見えていなかった自分の中にある差別にも気がつきました。日本にいて、知らぬ間に他者や日本に住む外国人を傷つけたこともきっとあったと思うのです。

そしてそれと同時に、他者から受けた優しさを、私は忘れません。私は思います。経験したことのないことはわからないのと同じで、人からもらった優しさだけを、確かに人はまた誰かに渡すことが出来ると。

小さなこと。アルバイト先の初日、着替え時にイヤリングを落としてしまった時、もう遅い時間で帰りたいだろうに長い間―20分くらいでしょうか、初めてあった友人が一緒に探してくれたこと。

シチリアからミラノへ向かう飛行機の中。日記を書く私を、隣に座る白髪の初老の男性が微笑みながら見ていました。そして飛行機を降りて別れる時、ふとお互い顔を合わせて笑顔を交わしたこと。

小さな小さな出来事、そしてもうこれから会うはずのない人たちとの瞬間が私の心を照らしてくれることがあります。

また同時に日本にいるたくさんの人が私の生活を支えてくれています。何か悲しいこと(また楽しいこと)があったとき、その人たちとのやり取りは温かさを持って私の心を満してくれます。

1人で生きているわけではない。そしてどうしたって私たちは他者との関わりの中でしか生きていけないのです。人付き合いがどちらかといえば得意ではなく1人が好きでもある私ですが、他者にいつ何時も助けられていることに改めて気がつきました。

他者から受ける理不尽と優しさと、どちらもを知った私。その理不尽の辛さを知っているが故に以前とは違った心持ちで、心から他者を尊重し優しくありたいと思うことができています。

八方美人かもしれません。驕っているかもしれません。そして私もどこかで他者を傷つけているかもしれないことを忘れてはいけないと思います。でもその何十、何百倍も、私は私と出会った人に一瞬でも優しさやあたたかさを渡せる人でありたいです。

最後に、作者のこの詩の意図を結びにこの文章を終えたいと思います。

「人間は本質的に自己中心的に生きるものであって、他者よりは自己を大切にする生物だと思う。他者についても、本来は無関心なのであり、他者をうとましく思うことが普通なのである。
しかし――である。それにもかかわらず、私たちは、そのような〈他者〉によって自己の欠如を埋めてもらうのであり、人間の世界は、〈他者〉で構成されている。私も〈他者〉の一人である。そこで、単になつかしいのではなく、うとましくもある他者、同時に、うとましいだけではなく、なつかしくもある他者――そういう視点を、いくらか苦心して、この詩の中にすべりこませた」

(吉野弘『現代詩入門』1980年,31-40)

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

今、私として、他者と生きること。

出典:吉野弘『風が吹くと』1977年, 茨城のり子『詩のこころを読む』1979年, 吉野弘『現代詩入門』1980年

筆者プロフィール

永山桃
早稲田大学休学中。
お芝居がきっかけで声優のお仕事をしています。
映画のレビューや絵を書いています。
私は基本的に声が高いですが、英語だと少し低くなるのでそれがとても嬉しいです。
未来は未定です。
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