初めて目の当たりにする”宗教”
私が「ジャッカル」と呼ばれるようになってから、10年近くが経過しようとしている。あまり聞き馴染みのないこのあだ名は、私が中学三年間を過ごしたインドネシアの首都、ジャカルタに由来する。ジャカルタに住んでいたから「ジャッカル」、高校一年時のクラスメイトによるなんとも単純なネーミングだが、既に私を語る上では欠かせないアイデンティティの一つとなっている。
ところで、皆さんはインドネシアという国についてどのようなイメージを抱いているだろうか。赤道直下の常夏の国ということもあり、リゾート地として有名なバリ島を想像する人も少なく無いと思うが、私にとってのインドネシアは“イスラム教徒の国”である。
インドネシアは世界でもっともイスラム教徒(ムスリム)の多い国である。早朝には街のあちらこちらからコーランの音が聞こえ、街ゆく女性の多くは「ヒジャブ」と呼ばれる布で顔や体を覆っている。8月から9月にかけての犠牲祭の時期になると、街中に牛が溢れる。イスラム教という“宗教”が根付くインドネシアでは当たり前の光景であるが、中学生になって初めてそれを目の当たりにした私はかなりの衝撃を受けた。
”宗教”って怖いもの?
日本において“宗教”を語ることは、タブー視される傾向にあると感じる。カルト宗教団体による凄惨な事件によるものも大きいかもしれないが、日本人にとって「“宗教”=自分たちとかけ離れた、非日常の概念」として捉えられ、それにまつわる世界中のニュースは、”事件”として一括りにされ、忘れられていく。
近年、イスラム国・通称ISISによる過激な運動から、日本人がイスラム教というものを強く認識するようにはなったが、それを“宗教”としてではなく、“テロ組織が崇拝するもの”として意識している人も少なく無いだろう。
しかし、それはあくまで表層であって本質ではない。私がインドネシア滞在中に交流したインドネシア人の方々は、気さくで優しく、思いやりに満ちていた。“宗教”は“文化”であっても、“人間性”ではないのである。
好きなことへ自信を持つ
この文章で“宗教”の話をしたのは、私が偶然の学校に入ったきっかけにも繋がるからだ。
偶然の学校は「知らないものを知る」をコンセプトとしており、クラスメイトには様々なバックグラウンドを持った人たちがいた。学生から大人まで、俳優の方や教師の方など、普段あまり交わることのない方たちと交流することができた。
それ以上に、クラスメイトは各々異なった“好き”を持っていた。そして各々がそれらを尊重し、吸収して新たな自分のアイデンティティに気づくという、成長の土台とも言える雰囲気がそこにはあった。
それは、私がインドネシアに行ったことによって、“宗教”への偏見が崩れた時と似た感覚だった。他人が信じるもの、好きなものがなんだろうとそれを非難することはあってはならない。偶然の学校には、年齢関係なく、人のことを尊敬することのできる人たちが集まっていたのである。
“宗教”も“好き”も、他人が口出しするものではないし、偏った視点で見てはいけない。どちらも自分のアイデンティティとして、自信を持って語られるべきものである。こうした私の考えは、一年間の学校生活を通して確信に変わった。
私は、エンターテインメントと呼ばれるものが“好き”な所謂オタクだが、それが自分のアイデンティティだと思っているし、自信も持っている。 ジャカルタで過ごした日々は、そうした自分を、そして他人を信じることの大切さを教えてくれたかけがえのない時間であり、それを象徴する「ジャッカル」も私にとってかけがえのないあだ名となっている。