僕は6年半ほど前からクライミングを続けている。
クライミングは「筋骨隆々な男女が岩だったり壁だったりを登っている遊び」というより、近頃は多くの人が楽しめる一種のアクティビティという方が世間的には正しいのかもしれない。
そんなクライミングは今や、趣味以上に僕のことを語る上では欠かせない大きなピースになっている。
もともと、かなりの飽き性だった。
筋トレをしてみようものなら2日と続かない。早起きでランニングしようなんて一念発起してみたこともあったが、行動にはまったく移されなかった。ひとつの曲を延々とリピート再生して、飽きたらしばらく聴かなくなるのは今もだから、おそらく現在進行形で飽き性なのだろう。
部活動でやっていたバスケットボールは結局6年間続いたけれど、あれは部活動という制約の賜物なのだろう。飽き性と言えども、誰かが関わる、あるいは誰かに見られている環境ではそこそこ続くし、そこそこ頑張れるのだと自分でも思う。
そんな僕がこんなに長い間、そして今も飽きることなく一定の情熱を持ちながらクライミングを続けているという事実が、我ながら不思議でならなかった。誰かにクライミングを説明する際にいつも言っていることだが、率直にクライミングはかなりつらい。身体中痛いし、指の皮なんていつも薄くなっている。なぜそんなつらい遊びを変わらず続けているのか、理由が分かったのはつい最近だった。
飽き性以上に、僕の性質をひとことで表すのであれば「負けず嫌い」という言葉が最も適しているだろう。
負けず嫌いの根底にあること、それは「人と比べる」ということではないだろうか。人と自分を比べた上で、相手より優れていない部分に対し劣等感を抱き、それを払拭したいと思うこと。あるいは誰かと比べて「この人には負けたくない」という動物的な本能ともいえる感覚。
この負けず嫌いは向上心へとつながるエンジンになると思っている。僕はこのエンジンに油を注ぐことで様々なことを頑張ってきた。
だが裏を返すとこの感情に縛られて生きてきたのも事実だ。誰かと比べ続けるがゆえにその「誰か」のことばかりに目が行ってしまい、自分という人間が見えなくなった。追いつけない影を見つめ続けては足元に目を向けて苦しくなった。これらの感覚は今でも消えることはない。
人と比べることで前へ進み、自分を保ってきたと同時に「自分という人間がなんなのか」、その輪郭がだんだんぼやけて、わからなくなっていくような気がしていた。
先輩に誘われて始めたクライミングだが、始めたての頃は「なんか楽しい」という感じだったような気がする。それから上達していくにつれていろんなことを知り、クライミングはただの趣味というにはもうもったいないくらいに僕にとって大切なものになっているのを実感するようになっていた。
通称「コンペ」と呼ばれる大会に出ない限り、クライミングにおいて人と比べるということは少ない。誰かと比べるよりむしろひたすら自分と向き合うことになる。自分が登りたいと思う岩やその道筋、それらを登るためにどうするのか。自然の中でけがのリスクを背負いながらもいかにして登るのか。そんな自身のなかでの葛藤に自らの大半が占められる。
両手の指先に力を入れて岩のひっかかりに手をかけて身体を支える。慎重に足を動かして、次の置き場につま先の一点で乗る。そしてわずか1cmにも満たないような次のひっかかりを見つめ、手を伸ばす。その繰り返しで少しずつ岩を上へ上へと登っていく。
この瞬間、世界には僕しかいなくなる。そこに普段いかなる時でも比べている誰かは存在しない。ただただ自分の頭と身体、感覚があるだけだ。そんな瞬間に感覚が研ぎ澄まされて誰かと比べてぼやけかけた自分という存在の輪郭がくっきりするのを感じる。
いまだに日々のなかでは自分を誰かと比べて、僕は悩み、苦しんでいる。
偶然の学校で少しずつ経験を重ねるごとに負けず嫌いは助長されて、自らの至らなさと悔しさを強く痛感させられている。授業を受けるたびに負けたくない思いで胸がいっぱいになる。
誰かの存在に縛られてしまい自らを見失ってしまう負けず嫌いだからこそ、壁や岩との対峙の中で感じる確かな自分自身の姿を求め、今日も登りに行くのだと、それが僕にとってのクライミングのひとつの意味で僕が登り続けられている理由なんだと、やっと最近気づくことが出来た。
人と比べるという思考方法を改める気は今のところない。それが僕にとっての原動力になっているからだ。
だからこそ人と比べることに耐えうるように、クライミングという遊びを通して自分自身を見つめなおす。そうすることでまたアクセルを踏むことが出来るようになると感じている。