大切な物を失った日
5年前難病を患っていた父が死んだ。
先日、実家を整理していたら、父が最後の一年に使っていたらくらくフォンが出てきた。 死後1年ほど経って、店頭へ解約しに行ったが、廃棄せずに持ち帰ってきたものだった。
僕は4年ぶりにその端末に入っていた唯一の動画を見て、父の声を聞いた。
父が麻痺した身体で愛犬の名前を呼びかけてビデオに必死に収めようとしている映像であった。だから父の姿が映っているわけではなく、映像はブレ、声も力がないものだった。
それでもその声を久々に聞いて、僕はなんだか嬉しくなり、悲しくなり、なんとなく安心感を覚えた。
でも僕は、父の声を忘れていた。
一緒に暮らしていたのに、父の発した最期の言葉も覚えていない。 なんなら亡くなる数年の会話らしい会話も覚えていない。 最後の一年は、介護の為の「水が欲しい」「トイレをしたい」「寝返りを打ちたい」などの合図か、微かに聞こえる言葉に対して、反応するやりとりしかしていないからだ。
人は、誰かを亡くした時に“声”から忘れてしまうという事を昔聞いた事がある。
僕は、知らぬ間に、父の声という大切なものを失っていた。
僕らが“生きている”という事実と偶然
父の死後1年余りの間に、同級生2人の親が亡くなった。まだ僕の父も含め60歳に満たないような年齢だった。数年前に、会社の一つ下の後輩も突然の病で帰らぬ人となった。
それまでの僕は、父の死は難病だったからか特別だったんだ、と勝手に思っていた。
が、そういう幾つかの死をみて、僕は気付いてしまった。
人生は長いかもしれないが、短いかもしれない。
それは自分かもしれないし、また大切な身近な誰かかもしれない。
今まで頭の中でぼんやり泳いでいた“死”という概念が、僕の中でとても確かなものに成長し、僕は、命は不確かなものだという事を理解した。
災害や事故や病…。
ちょっとした運が、ちょっとした運命が僕らを余りにも簡単に無力にし、命を根こそぎ取ってしまうのに、僕らは、命の不確かさをすぐに忘れてしまう。
明日もしかしたら、僕の、あなたの、あの人の、別れは突然なのかもしれない。
でも“当たり前”に頭が麻痺してしまうから、 僕らはその人の声や仕草をすべてが最後の別れだと思って行動できるわけではない。そうして僕らは失ってから、大切なものがいとも簡単に消えてしまうものなのだと改めて気付く。
死が迫る父を想いながら
僕には今でも忘れられない後悔がある。
父が死ぬ3ヶ月ほど前の11月末、社会人1年目だった僕に仕事中初めて母親から電話がかかってきた、父の容態がいよいよ悪いと。その時は何とか父は乗り越えた。
それを機会に初めて父が特殊な病気の旨を職場に打ち明け、毎晩日付が変わっても当たり前のように働いていた仕事を週の2日は定時で上がり、母に任せていた介護を夜だけは手伝う了承をもらった。
でも、あの時の僕は何を気にしてか、新人という事と膨大な仕事を前に毎日早く帰る決断をできなかった。仕事はこの先いつでもできる、父に会う時間は限られていた。
父との別れが近づいているのがわかっていたはずなのに、死を理解していなかった僕は心のどこかで父がいなくなる事を信じていなかった。
それでも心の中で理解しようとする僕と、父の死を拒む僕が戦っていたのだと思う。
定時で帰る日々は憂鬱だった、死期が迫り弱り果てた父を見る事がとても辛く、悔しくて会社からの帰り道に何度も涙を流して帰った。
そうして僕は父に向き合えないまま自分の心を保つ事で精一杯になりながら生きていたら、
ある日父はこの世界からいなくなっていた。
幾つかの死が僕の生き方を変えた事
父の死と後悔、そしてその後に近しく起こった周りの幾つかの死を経験した結果、これから何度も経験するであろう、唐突に訪れる死や別れが、僕の人生において大きな存在となった。
やはり大切な人や物とのサヨナラはとても辛く、とても寂しい。胸は詰まり、心に穴を空ける。
そのサヨナラは決して慣れるようなものではない。
命は不確かなものだとわかったからこそ、 大切な人に会い続けなきゃいけないと僕は知った。向き合う事の重要性を知った。
いつかどこかでふいに訪れる“死”を誰も教えてくれない。だからこそ、いつかわからない死を前に自分がどう生きているのか、何が残せるのかを意識するようになった。
そうすると、自然に人や物事への関わり方(目標)が変わっていった。
できるだけ小さな事でも優しさを忘れないこと。そして人と繋がれる人間になる。
生きている人との時間や感情を出来るだけ良いものにする。
というものだ。
それはいま、僕に大切な人達に出来るだけ会い続け、想い続ける意味を与えている。
そうして悲しい出来事だったはずの死が、いまの僕自身の原動力になり、多くの人に支えてもらえるキッカケとなった。
僕らは必ず死ぬ。
だから同じように生きている中で、大切な人も死んでいく。
人は長く生きれば生きるほど、誰かを亡くしたり、ものが壊れたり、大切なものを一つずつ失っていく。
それでも僕らはその事実に寄り添いながら生きていかなければならない。
新しい大切なものを見つけたり、最後まで残る大切なものを守りながら。